ノルウェイの森(下)

4 「私たちがまともな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」

8「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対するほうが物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについてる、ザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいの、それでべつに。(略)私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。」

12「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンゴがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。」

24 「あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。」

40 ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。(略)「たまに世の中が辛くなると、ここに来てウォッカ・トニック飲むのよ」

42 「ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだか本当じゃないみたいに思える」「ジム・モリソンの歌にたしかそういうのあったわよね

」「People are strange awhen you are a stranger」「ピース」と緑は言った。「ピース」と僕も言った。

43 「どこもかしこもロバのうんこよ。ここにいたって、向うに行ったって。世界はロバのうんこよ。」

53 「ケース・スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。*具体例から学ぶこと

56 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほら(、、)にガラスを貯めるみたいに」

60 「みんな自分が何かをわかってないことを人を知られるのが怖くってしようがなくてビクビクして暮してるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」

61 「ねえ、もし革命が起こったら税務署員の態度って変ると思う?」「きわめて疑わしいね」「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」「ピース」と僕は言った。「ピース」と緑も言った。

63 「そこにあるものはひとつの生命の弱々しい痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった」

79 「最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。(略)フィクサーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。」

*面倒な出来事を調停する人 *「機械仕掛けから出てくる神」あるいは「機械仕掛けの神」などと訳される。

94 僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋書店でフォークナーの『八月の光』を買い、なるべく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってオーネット・コールマンだのバド・パウエルだののレコードを聴きながら熱くて濃くてまずいコーヒーを飲み、買ったばかりの本を読んだ。(略)

「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言った。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。

101 僕と永沢さんはジョセフ・コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲んだ。

101 彼女はとてもきちんと化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブルーの素敵なワンピースを着て、上品な形の赤いパンプスをはいていた。僕がワンピースの色を誉めると、これはミッドナイト・ブルーっていうのよとハツミさんは教えてくれた。

102 「もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減することが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの少ない道を選ぶようになる」「でも鼠は恋をしないわ」「鼠は恋をしない」(略)「素敵だね。バック・グラウンド・ミュージックがほしいね。」

115 彼女のミッドナイト・ブルーのワンピースはまるでタクシーの片隅の闇にあわせてあつらえたようにみえた。

127 日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとポールに絡みついたままぴくりとも動かなかった。

132 DUGに着いたとき、緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。

「何飲んでるの?」と僕は訊いた。「トム・コリンズ」と緑は言った。僕はウィスキー・ソーダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。

135 「じゃあ私、生理が始まったら二、三日赤い帽子かぶるわよ。それでわかるんじゃない?」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのにね」と僕は言った。

137 ウィスキー・ソーダの二杯目を注文し、ピスタチオを食べた。シェーカーが振られたり、グラスが触れあったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ・ヴォーンが古いラブ・ソングを唄っていた。

137 「タンポン事件?」「私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょ?」

141 「こういうの見てると立っちゃう?」「まあ、そりゃときどきね」「この映画って、そういう目的のために作られているわけだからさ」「それでそういうシーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって考えるとちょっと不思議な気しない?」

150 「どんな話したの?」「エウリピデス」緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんでいる初対面の病院にいきなりエウリピデスの話する人ちょっといないわよ」「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。

151 「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。「どんなこと?」「なんだっていいわよ。私が気持ち良くなるようなこと」「すごく可愛いよ」「ミドリ」と彼女は言った。「名前つけて言って」「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言い直した。「すごくってどれくらい?」「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」

153 最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった、そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。

156 手紙「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴があいてしまったような気分になったのがあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。」

159 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩脚を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。

時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりの世界は大きく変ろうとしていた。ジョン・コルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実態のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆ど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。右足を前におろし、左足を上げ、そしてまた右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。

165 一九七O年という耳慣れない響きの年がやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへと足を踏み入れた。

169 「かもめ」*僕の吉祥寺の家でなついた猫

176 春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように眺めていた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はどこかから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。

176 僕は部屋に入ってカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。

178 意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。(略)そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

184 「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」(略)「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」

192 あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジュ・バタイユボリス・ヴィアンを好んで読み、音楽ではモーツァルトとモーリス・ラヴェルをよく聴いた。

195 僕らは井の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス・リーガルを最後の一滴まで飲んだ。

207 「どんなものが嫌い?」「鶏肉と性病としゃべりすぎる床屋が嫌いだ」「他には?」「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」

208 「どれくらい私のこと好き?」「世界中のジャングルの虎がみんな熔けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

213 「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。」

「私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょ?」

250 「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさといかいうものをよく知っているわね」この人たちというのはもちろんジョン・レノンポール・マッカートニー、それにジョージ・ハリソンのことだった。

251 それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの『死せる王女のためのパヴァーヌ』とドビッシーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」

251 「二十曲」と僕は言った。「私ってまるで人間ジューク・ボックスみたいだわ」

258 緑は長い間電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押し付けて目を閉じていた。それからやがて緑は口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。

僕は今どこにいるのだ?

僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。

、 、 、 、 、 、 、 、、

僕は今どこにいるのだ?

でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々のの姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。

ノルウェイの森(上)

5 僕は三十七歳

5 十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のうように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。

5 『ノルウェイの森

6音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。

6 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。(略)それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。

7 正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだった。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。

8 ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)

9 僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。

9 そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。

10 僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。

11 そして穴の中には暗黒がー世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃密な暗黒がーつまっている。

15 ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。

18 僕の体の中に記憶の辺土(リンボ)とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、と。

18 全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところーと僕は思うー文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。

21 中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。

22 いずれにせよら一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。

26 「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。

26 僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。(略)「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションをするんだよ」と僕は言った。

32 僕と直子は四ツ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。(略)しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。* 5月の日曜日

35 彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。

39 「うまくしゃべることができないの」(略)まるで自分の体がふたつに分れていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

39 彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。

44 赤いN360 キズキの自殺に使われた車

45 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くことーそれだけだった。(略)はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとして空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。

 

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(太字)

 

言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。

 

47 それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。

55 僕が当時好きだったのはトルーマン・カポーティジョン・アップダイクスコット・フィッツジェラルドレイモンド・チャンドラーといった作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好んで読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳大江健三郎三島由紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった。

56 十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの『ケンタロウス』だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビィ』にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして(略)その後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。

57 「バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」永沢の好きな作家

66 クリスマスに僕は直子の大好きな『ディア・ハート』の入ったヘンリー・マンシーニのレコードを買ってプレゼントした。

67 オーケストラは直子の大好きなブラームスの四番のシンフォニーを演奏することになっていて

71 レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で、最後はビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』だった。窓の外では雨が降りつづけていた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。

72 ふと気がついたとき、直子の話は既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふつと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話つづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが損なわれてしまったのだ。

73 彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。

74 最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。

77 体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。

82 そして僕とTVとのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。

83 その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。螢はインスタント・コーヒーの瓶に入っていた。

→直子から手紙が帰ってきたのは7月の始め

86 それはまるで失われた時間をとり戻すかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。(略)その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光はまるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

87 イニシアチブ→主導権

90 部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがて僕はそれをはがして。かわりにジム・モリソンとマイルス・デイヴィスの写真を貼った。

95 「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガートみたいなさゃべりかたするのね。クールでタフで」

100 永沢さんに借りていたジョセフ・コンラッドの『ロード・ジム』

102ー3 「なあ、ワタナベ」と食事が終ってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」

「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。

「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当るんだぜ」

105 アジビラアジテーション・ビラの略語で、政治的扇動(煽動)を目的とする文言を記載した書面のこと。

106 信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをは(・・・・)が違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。

112 『グリーン・ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。

115 「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」「わからないな」「お金がないって言えることなのよ。」(略)「美人の女の子が『私今日はひどい顔してるから外に出たくないなあ』っていうのと同じね。」

118 秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きなのだ。*水仙は春の訪れを知らせる花

119 どこからかいしだあゆみの唄が聴こえた。

119 大塚駅 *小林書店

121 窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。

122 うしろから見ているとその姿はインドの打楽器奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。

124 「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』唄ったことあるのよ。」→seven daffodils ブラザーズ・フォア 1964

128 「それじゃ木樵女みたいだ」(きこりめ)は、多くは男性が職業としている「木樵」を職業としている女性のこと。129 「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」

134 その日曜日の午後にはばたばたといろんなことが起った。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスをした。そんな風に言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。

137 彼女は『レモン・ツリー』だの『パフ』だの『五〇〇マイル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄っていった。

→花はどこに行った、漕げよマイケル 反戦

漕げよマイケル・・・この歌の背景にあるのは、1600年以降の北アメリカ大陸へのヨーロッパ各国の入植が開始されると同時期に、現地での労働力として西アフリカから強制的に連行されたアフリカ人達。彼らは人間としての基本的な権利を一切与えられず、南部のプランテーションで過酷な労働を死ぬまで強制されていた

137 今度は自分で作詞・作曲したという不思議な唄を唄った。

あなたのためにシチューを作りたいのに

私には鍋がない。

あなたのためにマフラーを編みたいのに

私には毛糸がない。

あなたのために詩を書きたいのに

私にはペンがない。

「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。

143 それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。

144 そして僕は初秋の束の間の魔力がもうどこかへ消え去っていることを知った。

145 「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。

149 『卒業』を観た。→映画 1967

149 トーマス・マンの『魔の山』を一心不乱に読んでいた。

156 「私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。(略)しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。(略)もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。だからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。」

160 私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。

163 「阿美寮」(略)これはたぶんフランス語のami(友だち)からとったものだろうと想像した。

170 まったくなんて静かなところなんだろうと僕は思った。あたりには何の物音もない。なんだかまるで牛睡(シエスタ)の時間みたいだなと僕は思った。*南ヨーロッパで、昼食後の昼寝。

177 「まず第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」

182 「もちろん喜んで」(略)「あの『ライ麦』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」

184 それは我々が非現実を心地良く描こうとした絵からしばしば感じとる情感に似ていた。ウォルト・ディズニームンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。

194 の食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された場所に集って、お互い同士でしかわからない情報を交換しているのだ。

195 ビル・エヴァンスのレコード *直子を抱いた夜にかけた

197 でもギター弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしくて・・・・・・・まるで小さなあたたかい部屋みたい

198 「この曲(ノルウェイの森)聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」(略)「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。

199 あの思春期独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。

201 普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。「ねえ、自分のこと普通の人間だと言う人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ」

206雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋を見つけるのは簡単だった。明かりの灯っていない窓の中から奥の方で小さな光が仄かに揺れているのものを探せばよかったのだ。僕は身動き一つせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆って、しっかりと守ってやりたかった。僕はジェイソン・ギャッツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたのと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。

226「もし続き聞きたいんなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」「まるでシエラザードですね」「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。*シェエラザードとは、アラビアンナイト千夜一夜物語」の語り手

233 「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」(略)「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。(略)私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。」

252 『スカボロ・フェア』の映画→『卒業』

255 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。」

「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわってるよ」

美徳のよろめき 三島由紀夫

5 いきなり慎しみのない話題からはじめることはどうかと思われるが、倉越夫人はまだ二十八歳でありながら、まことに官能の天賦にめぐまれていた。

 

9 節子は二人の個体が、あるとき、唇の軽い接触だけで触れ合って、その後、何事もなくお互いに離れ離れに生きているということに、それほど残り惜しさを感じているわけではない。それは何か詩人でない人の上にも一度は来る、詩的体験のようなものである。

 

17 悲しみは少量の血の流失と共に、彼女の感情が彼女の肉体をのがれて、さ迷いだしたことから起ったのである。これを癒やすためには、自分の肉体との全き親和を取り戻せばいい。流失していた感情がよみがえり、肉体の中へ流れ戻り、肉体の中へ納められ、波瀾は静まって、・・・・・・幾分ものうげな、なまあたたかい、肉の円満な自足の状態が又はじまった。

 

16 節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。

 

20 常用の香水、ジャン・パトゥのジョイをつける。

 

23 ただ節子の躾が、無邪気に賛嘆の叫びをあげていた。何というすばらしいお行儀のわるさ!

 

25 そこには酒に赤らんだ無益な、眠っている肉があるばかりだ。

 

36 「あなたとお会いしていると、私、このごろとても疲れるようになった」と節子は、そこで、病人の訴え方をした。

「きっと春のせいだよ」土屋はそう言った。

 

39 受胎は土屋とのあいびきの中絶を意味している。この一向に捗らぬ、なまぬるい拷問のようなこいの中絶を意味している。

 

40 この真摯、この誠実には、どこかしらに遊びの調子があった。浅瀬で遊ぶのに飽きた心が、深みで遊びはじめた趣きがあった。

 

55 今では節子は自分の思いがけないやさしさ、自然な情愛、無邪気な愛撫をも憎んだ。良人のためにとっておいたその反対のもののほうへ、無理にも引き返そうと力めた(つとめた)。すなわち感情の砂漠と、空想のみだらさのほうへ。果てしれぬ永い午後の無為の時間のほうへ。

 

63 マンテルピース▶️マントルピース 暖炉

 

67 やがて二人の体が、寝台の上に漂う昼の闇の中で、深い吐息に埋もれるまで、はじめていささかの曖昧さもない結合が進んでゆき、節子は男の筋肉のひしめきの一つ一つに感動した。土屋は生れかわった。この青年は巧者な、確信ある恋人になったのである。

 

71 節子は思うのであった。美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞(きょうだい)のように仲良くさせると。

 

73 はじめての拒絶であるのに、節子の拒絶は堂に入っていた。決して激せず、逆らわず、微笑を含んで、水の中で解けた帯のように巧みに逃げた。

 

74 時花(はやり) 

時花・・・じか。その季節の花。

 

79 棒紅・・・資生堂の紅はかわいい

 

79 ジンフィッズ・・・ジンフィズ。「フィズ」とは、カクテルのスタイルの一つで、ベースのお酒・レモン果汁・シロップを炭酸で割ったカクテルのこと。

 

80 嘘がひとたび生活上の必要と化すと、それはまるで井戸水のように、渋滞なくこんこんと湧いた。

 

86 土屋の煙草の煙は、停滞した夜風のために、彼の裸かのまわりに懸っていた。彼は肉、不真面目な肉の固まりだった。もしくはそういう自負だけの男であることを、無理にも装っている必要のある人間であった。

 

93 風景画を描きながら、節子は肉慾を描いている。それは同じ絵具で足りるのだ。そしてそれらの風景を吹きめぐる海風には、土屋の肉の匂いが充ちあふれていたのである。

 

99 遠近法(パースペクティブ)・・・パースペクティブとは、視点、目線。さまざまな立場からの見方。

 

104 彼女は日時計に生れて来ればよかったのだ。

 

139 『男ってあんなにまで孤独になれるんだわ。女の孤独はちがう。(略)男は

一度高い精神の領域へ飛び去ってしまうと、もう存在(・・)であることをやめてしまえる!』

 

141 情に負けるということが、結局女の最後の武器、もっとも手強い武器になります。(略)情に負け、情に溺れて、もう死ぬほかないと思うときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまいります。

 

142 世間を味方につけるということは奥様、とりもなおさず、世間に決して同情の涙を求めないということなのです。

152 ディジェスティフ・・・フランス語で食後酒のことで、コース料理や食事の後に、チーズやデザートなどと合わせるお酒のこと。 アペリティフは食前酒。