美徳のよろめき 三島由紀夫

5 いきなり慎しみのない話題からはじめることはどうかと思われるが、倉越夫人はまだ二十八歳でありながら、まことに官能の天賦にめぐまれていた。

 

9 節子は二人の個体が、あるとき、唇の軽い接触だけで触れ合って、その後、何事もなくお互いに離れ離れに生きているということに、それほど残り惜しさを感じているわけではない。それは何か詩人でない人の上にも一度は来る、詩的体験のようなものである。

 

17 悲しみは少量の血の流失と共に、彼女の感情が彼女の肉体をのがれて、さ迷いだしたことから起ったのである。これを癒やすためには、自分の肉体との全き親和を取り戻せばいい。流失していた感情がよみがえり、肉体の中へ流れ戻り、肉体の中へ納められ、波瀾は静まって、・・・・・・幾分ものうげな、なまあたたかい、肉の円満な自足の状態が又はじまった。

 

16 節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。

 

20 常用の香水、ジャン・パトゥのジョイをつける。

 

23 ただ節子の躾が、無邪気に賛嘆の叫びをあげていた。何というすばらしいお行儀のわるさ!

 

25 そこには酒に赤らんだ無益な、眠っている肉があるばかりだ。

 

36 「あなたとお会いしていると、私、このごろとても疲れるようになった」と節子は、そこで、病人の訴え方をした。

「きっと春のせいだよ」土屋はそう言った。

 

39 受胎は土屋とのあいびきの中絶を意味している。この一向に捗らぬ、なまぬるい拷問のようなこいの中絶を意味している。

 

40 この真摯、この誠実には、どこかしらに遊びの調子があった。浅瀬で遊ぶのに飽きた心が、深みで遊びはじめた趣きがあった。

 

55 今では節子は自分の思いがけないやさしさ、自然な情愛、無邪気な愛撫をも憎んだ。良人のためにとっておいたその反対のもののほうへ、無理にも引き返そうと力めた(つとめた)。すなわち感情の砂漠と、空想のみだらさのほうへ。果てしれぬ永い午後の無為の時間のほうへ。

 

63 マンテルピース▶️マントルピース 暖炉

 

67 やがて二人の体が、寝台の上に漂う昼の闇の中で、深い吐息に埋もれるまで、はじめていささかの曖昧さもない結合が進んでゆき、節子は男の筋肉のひしめきの一つ一つに感動した。土屋は生れかわった。この青年は巧者な、確信ある恋人になったのである。

 

71 節子は思うのであった。美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞(きょうだい)のように仲良くさせると。

 

73 はじめての拒絶であるのに、節子の拒絶は堂に入っていた。決して激せず、逆らわず、微笑を含んで、水の中で解けた帯のように巧みに逃げた。

 

74 時花(はやり) 

時花・・・じか。その季節の花。

 

79 棒紅・・・資生堂の紅はかわいい

 

79 ジンフィッズ・・・ジンフィズ。「フィズ」とは、カクテルのスタイルの一つで、ベースのお酒・レモン果汁・シロップを炭酸で割ったカクテルのこと。

 

80 嘘がひとたび生活上の必要と化すと、それはまるで井戸水のように、渋滞なくこんこんと湧いた。

 

86 土屋の煙草の煙は、停滞した夜風のために、彼の裸かのまわりに懸っていた。彼は肉、不真面目な肉の固まりだった。もしくはそういう自負だけの男であることを、無理にも装っている必要のある人間であった。

 

93 風景画を描きながら、節子は肉慾を描いている。それは同じ絵具で足りるのだ。そしてそれらの風景を吹きめぐる海風には、土屋の肉の匂いが充ちあふれていたのである。

 

99 遠近法(パースペクティブ)・・・パースペクティブとは、視点、目線。さまざまな立場からの見方。

 

104 彼女は日時計に生れて来ればよかったのだ。

 

139 『男ってあんなにまで孤独になれるんだわ。女の孤独はちがう。(略)男は

一度高い精神の領域へ飛び去ってしまうと、もう存在(・・)であることをやめてしまえる!』

 

141 情に負けるということが、結局女の最後の武器、もっとも手強い武器になります。(略)情に負け、情に溺れて、もう死ぬほかないと思うときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまいります。

 

142 世間を味方につけるということは奥様、とりもなおさず、世間に決して同情の涙を求めないということなのです。

152 ディジェスティフ・・・フランス語で食後酒のことで、コース料理や食事の後に、チーズやデザートなどと合わせるお酒のこと。 アペリティフは食前酒。