ノルウェイの森(下)

4 「私たちがまともな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」

8「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対するほうが物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについてる、ザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいの、それでべつに。(略)私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。」

12「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンゴがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。」

24 「あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。」

40 ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。(略)「たまに世の中が辛くなると、ここに来てウォッカ・トニック飲むのよ」

42 「ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだか本当じゃないみたいに思える」「ジム・モリソンの歌にたしかそういうのあったわよね

」「People are strange awhen you are a stranger」「ピース」と緑は言った。「ピース」と僕も言った。

43 「どこもかしこもロバのうんこよ。ここにいたって、向うに行ったって。世界はロバのうんこよ。」

53 「ケース・スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。*具体例から学ぶこと

56 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほら(、、)にガラスを貯めるみたいに」

60 「みんな自分が何かをわかってないことを人を知られるのが怖くってしようがなくてビクビクして暮してるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」

61 「ねえ、もし革命が起こったら税務署員の態度って変ると思う?」「きわめて疑わしいね」「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」「ピース」と僕は言った。「ピース」と緑も言った。

63 「そこにあるものはひとつの生命の弱々しい痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった」

79 「最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。(略)フィクサーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。」

*面倒な出来事を調停する人 *「機械仕掛けから出てくる神」あるいは「機械仕掛けの神」などと訳される。

94 僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋書店でフォークナーの『八月の光』を買い、なるべく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってオーネット・コールマンだのバド・パウエルだののレコードを聴きながら熱くて濃くてまずいコーヒーを飲み、買ったばかりの本を読んだ。(略)

「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言った。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。

101 僕と永沢さんはジョセフ・コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲んだ。

101 彼女はとてもきちんと化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブルーの素敵なワンピースを着て、上品な形の赤いパンプスをはいていた。僕がワンピースの色を誉めると、これはミッドナイト・ブルーっていうのよとハツミさんは教えてくれた。

102 「もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減することが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの少ない道を選ぶようになる」「でも鼠は恋をしないわ」「鼠は恋をしない」(略)「素敵だね。バック・グラウンド・ミュージックがほしいね。」

115 彼女のミッドナイト・ブルーのワンピースはまるでタクシーの片隅の闇にあわせてあつらえたようにみえた。

127 日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとポールに絡みついたままぴくりとも動かなかった。

132 DUGに着いたとき、緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。

「何飲んでるの?」と僕は訊いた。「トム・コリンズ」と緑は言った。僕はウィスキー・ソーダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。

135 「じゃあ私、生理が始まったら二、三日赤い帽子かぶるわよ。それでわかるんじゃない?」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのにね」と僕は言った。

137 ウィスキー・ソーダの二杯目を注文し、ピスタチオを食べた。シェーカーが振られたり、グラスが触れあったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ・ヴォーンが古いラブ・ソングを唄っていた。

137 「タンポン事件?」「私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょ?」

141 「こういうの見てると立っちゃう?」「まあ、そりゃときどきね」「この映画って、そういう目的のために作られているわけだからさ」「それでそういうシーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって考えるとちょっと不思議な気しない?」

150 「どんな話したの?」「エウリピデス」緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんでいる初対面の病院にいきなりエウリピデスの話する人ちょっといないわよ」「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。

151 「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。「どんなこと?」「なんだっていいわよ。私が気持ち良くなるようなこと」「すごく可愛いよ」「ミドリ」と彼女は言った。「名前つけて言って」「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言い直した。「すごくってどれくらい?」「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」

153 最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった、そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。

156 手紙「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴があいてしまったような気分になったのがあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。」

159 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩脚を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。

時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりの世界は大きく変ろうとしていた。ジョン・コルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実態のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆ど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。右足を前におろし、左足を上げ、そしてまた右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。

165 一九七O年という耳慣れない響きの年がやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへと足を踏み入れた。

169 「かもめ」*僕の吉祥寺の家でなついた猫

176 春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように眺めていた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はどこかから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。

176 僕は部屋に入ってカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。

178 意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。(略)そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

184 「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」(略)「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」

192 あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジュ・バタイユボリス・ヴィアンを好んで読み、音楽ではモーツァルトとモーリス・ラヴェルをよく聴いた。

195 僕らは井の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス・リーガルを最後の一滴まで飲んだ。

207 「どんなものが嫌い?」「鶏肉と性病としゃべりすぎる床屋が嫌いだ」「他には?」「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」

208 「どれくらい私のこと好き?」「世界中のジャングルの虎がみんな熔けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

213 「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。」

「私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょ?」

250 「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさといかいうものをよく知っているわね」この人たちというのはもちろんジョン・レノンポール・マッカートニー、それにジョージ・ハリソンのことだった。

251 それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの『死せる王女のためのパヴァーヌ』とドビッシーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」

251 「二十曲」と僕は言った。「私ってまるで人間ジューク・ボックスみたいだわ」

258 緑は長い間電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押し付けて目を閉じていた。それからやがて緑は口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。

僕は今どこにいるのだ?

僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。

、 、 、 、 、 、 、 、、

僕は今どこにいるのだ?

でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々のの姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。